飲み過ぎだったかも
2011年7月27日 § 1件のコメント
昨日は飲み過ぎたのかも知れません。
でも土曜日から奈良の田舎に帰るために食料や調味料を用意しているのですが、西友でちゃんとスパゲティのソースやらめんつゆやら買って帰っていました。
ドローイングも描いて乾きを待って写真も撮っていました。
それでsukosimatteとしたまではよかったのですが、寝てしまった。
なかなかアップされないなあと思って夜遅く待っていただいた方にお詫び申し上げます。(笑)
いや、本当に。
主計さんからのコメントで内田樹先生(実際に教わった先生ではありませんが)のブログで磯江毅のことが書いてあると教えて貰いました。
葡萄を描いている絵がありまして、その葡萄について書いてあるところは今度の展覧会場に奥さんのコメントがあるのですがそのコメントの中でやはり葡萄が腐っていくのを別のものに替えてセロテープやらでくっつけるのに苦労していたと話がありました。
スーパーリアリズムというのが昔ありまして、なんでも写真のように描くんですね。
スプーンに卵が乗っていてたらーりとこぼれるところを描いたりしたのがありました。
どうやってそんなところを描くかといえば、先ず写真に撮るのです。そしてそれをキャンバスに投影機で写してなぞっていく。写真を見ながら写真と同じように描くわけです。と、スプーンの絵を描いている作者の話を読んだことがあります。
だからスーパーリアリズムというのは実際の物質を見て描く写実ではないのです。写真を写して描いているわけですから。
早い話が写実絵画ではないのです。写真のように見えることが大事だったのです。写真のように見せるというところが芸術としての表現だったのです。(私的解釈)
磯江毅のような写実絵画は実際の対象が目の前にあります。
モデルは動くし、花も時間とともに動きます。枯れたりします。1ヶ月も2ヶ月も経てば埃も付くし、どんどん変わっていきます。
そういう変化するものを目の前に置いてそれを写し描くのが写実絵画です。だからあるものをそのまま写して描いているのではないのです。ここが大事な所なのです。対象に対する解釈が入るわけです。
内田樹先生は腐臭がすると書いていましたが、私は磯江の絵を見て感じませんでした。たぶん絵を描くか描かないかの違いかもしれませんが、私は対象との緊張感、それもかなり張りつめた硬質の緊張感を感じて見ていました。

何時まで待っていたのか、口に出すのもおぞましいぐらい長い間、「親鸞」を読みながら待っていましたよ。
寝ちゃったのかぁ。早く気が付けばよかった。
いいです、いいです。たくさん本が読めました。
礒江さんの作品は、とても良かったです。
「写実を極めていくと、写実ではなくなる・・・」とか、「物をよく見ることは、それを解体すること」というような感じのことが書かれていて、そういう言葉が印象的でした。哲学ですよね。
鶯酔さんが書かれた「スーパーリアリズム」とは異質のものであるということはわかりました。
本物を見ると、写真とは全く違うものだという事がよくわかります。
おなかにズシンとくる絵を紹介していただき、有難うございました。